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プロフェッショナルインタビュー 2026-03-10

第2回「『努力は必ず誰かが見てくれている』ということを実感できた学生生活でした。」大分大学医学部 環境・予防医学講座 教授 山岡𠮷生先生

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る 「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー! どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
NHK BSヒューマニエンス

今回は【大分大学医学部 環境・予防医学講座 教授】の山岡𠮷生 先生のインタビューです!

テーマは 第2回「『努力は必ず誰かが見てくれている』ということを実感できた学生生活でした。」をお話しいただきます。

目次

プロフィール

名 前:

山岡(やまおか)𠮷生(よしお)

病院名:

大分大学

所 属:

環境・予防医学講座 教授
先生の写真
先生の写真

経 歴:

1961年に滋賀県大津市で生まれる。
1979年に京都大学工学部に入学し、1983年に京都大学工学部を卒業する。
1983年に京都大学大学院工学研究科に入学する。
1984年に京都府立医科大学に入学する。
1990年に京都府立医科大学を卒業し、京都府立医科大学附属病院研修医となり、第三内科に勤務する。
1991年に大津市民病院研修医となり、消化器内科に勤務する。
1993年に京都府立医科大学大学院に入学し、1997年に京都府立医科大学大学院を修了する。
1997年に米国のベイラー医科大学に留学し、消化器内科のポスドクとなる。
2001年にベイラー医科大学消化器内科講師、2002年にベイラー医科大学消化器内科助教授、2004年にベイラー医科大学消化器内科准教授となる。
2009年に大分大学医学部環境・予防医学講座教授に就任する。
2010年にベイラー医科大学消化器内科教授に就任する。
2019年から2021年まで大分大学医学部長を務める。
2021年に大分大学理事、副学長に就任する。

    

2006年から2007年までイラン国Shaheed Beheshti医科大学客員教授、2008年から2009年まで北海道大学病院客員臨床教授、2015年からモンゴル国モンゴル国立医科学大学客員教授、2017年からインドネシア アイルランガ大学医学部招聘教授、2019年からタイ タマサート大学医学部ASEAN特任教授、2020年からマレーシア国マレーシア国立サバ大学客員教授を務めている。

━━ 最初は工学部に入学されたのですね。

 私は滋賀県大津市で生まれ育ち、京都大学工学部で資源工学を専攻しました。資源工学とは石油や鉱物などの地下資源の成り立ちや利用法について学ぶ分野で、もともと石ころや化石を集めるのが好きだった私にとって、非常に魅力的な学問でした。学部時代の卒業研究では岩石内部に生じる微小なひび割れ(マイクロクラック)に関する研究を行い、地震発生メカニズムの理解に繋がるテーマに取り組みました。

━━ マイクロクラックを研究テーマに選ばれたのはどうしてですか。

 その講座の教授が進めておられたテーマでしたので、私も同じようにそれをテーマに選び、その研究の面白さから大学院にも進学することになりました。一方で、私の家系には医師が多く、いとこにも開業医がいたため、高校3年生までは自分も医師になろうと考えていた時期もありました。ただ、岩石も好きでしたので、大学ではその興味を追究していました。しかし、医師への思いが次第に再燃し、最終的に医学の道を志すことになったのです。

━━ それで医師を目指されたのですね。

 工学部で資源工学を学ぶうちに、次第に「生命そのもの」に興味を持つようになり、より人の生活や社会に直接貢献できる職業に就きたいという思いが芽生えてきました。もともとは医師を目指していたこともあり、封じ込めていた気持ちが次第に再燃していったのだと思います。

先生の写真


━━ そのときは大学院に進まれていたのですよね。

 そうです。大学を卒業して、大学院に進んだのですが、半分は医学部への受験勉強をしていました(笑)。大学院の先生には「方向転換して医師になりたい」とお話ししたところ、「一度チャレンジしてみるといい」と言ってくださいました。ただ、医学部への再入学を決意したきっかけには工学で取り組んでいた岩石の微細なひび割れ(マイクロクラック)に関する研究も関係しています。岩のクラックに向き合うより、「人の骨のクラック=整形外科のような世界のほうが人の役に立てるのではないか」と、ふと考えたのです。それで、最初は整形外科に惹かれていましたが、医学の勉強を進める中で、全身を診て病態を深く理解し、長期的に患者さんと関わる内科医の知的で責任ある仕事に強く魅力を感じるようになっていきました。

━━ 医学部に入学されてみて、いかがでしたか。

 京都府立医科大学に入学した当初は、既に一度大学を卒業しているということもあり、「年上の自分が周囲の模範にならなければならない」という強い意識がありました。現在は学士入学の枠を持っている大学も増えてきましたが、府立医大にはそのような枠はなく、入学者は普通に4浪とか、10浪とかしていたのです。だから浪人生はそれなりにいましたが、大学を卒業後に入学した人は私の学年では私を含めて2人しかいませんでした。もう1人も京大出身でしたが、そういう状況から「模範にならねばならない」という意識が強くなったのだと思います。学生生活の8割から9割が勉強に打ち込んでいたという感じです。残りの時間に部活動などをしていました。

━━ 卓球部に入っていらっしゃったんですよね。

 私は中学時代から卓球部で活躍し、京大でも卓球を続けていたので、府立医大でもつい卓球にのめり込んでしまい、練習や試合に打ち込む日々が続きました。でも、勉強にも手を抜くことはなく、試験前には自分なりにポイントをまとめた「試験対策ノート」を作り、同級生に配っていました。驚いたことに、その手書きのノートはいつの間にか後輩たちの間にも広まり、後年、講演で母校を訪れた際に、当時の後輩から「実は先生のノートを使って勉強していました」と言われ、大変驚きました。そのような努力も実り、最終的に首席で卒業することができ、卒業式では答辞を読む栄誉をいただきました。学問と部活動の両立を通じて、「努力は必ず誰かが見てくれている」ということを実感できた学生生活でした。

━━ 消化器内科を選ばれたのはどうしてですか。

 消化器内科を選んだ背景には、実は幼少期の自分自身の体験が関係しています。私は小さい頃からストレスに弱く、緊張があると食事が喉を通らなくなることがよくありました。小学生のある時期には給食が食べられなくなり、病院に連れて行ってもらったものの、「気のせいでしょう」と取り合ってもらえず、悩んだ記憶があります。当時は原因が分からず戸惑っていましたが、後に医師となって調べたところ、私はピロリ菌には感染していなかったことが判明し、器質的な異常ではなく、いわゆる機能性胃腸障害だったのだろうと納得がいきました。このような“検査で異常が出ないけれど、確かに症状が存在する”という消化器領域の複雑さと奥深さに、強く惹かれるようになったのです。また、内視鏡で実際に臓器を「見て」、病変をその場で診断や治療ができるダイナミックさも消化器内科の魅力です。自らの体験と患者さんの目線に立った診療の両面から、自然とこの分野に進むことになりました。消化器内科は内視鏡という「手に職」がありますので、一種の外科のような形があります。内視鏡の技術は今でも役に立っていますし、そういう意味では外科の手術まではいかないものの、カメラは面白いな、技術を学びたいなと思いました。

━━ 第三内科を選ばれたのは消化器を診ている科だからですか。

 そうですね。消化器内科は基本的に第三内科でしたので、自動的にそうなります。当時はナンバー内科制でしたし、実は第一内科でも消化器を診ていた時期があったのですが、第三内科は消化器をメインにしていて、血液内科も診ているということで選びました。

━━ 研修医時代の思い出をお聞かせください。

 私の研修医としてのスタートは京都府立医科大学附属病院でした。大学生時代は実家から車で通っていましたが、研修医として働くには片道30分の通勤は負担が大きく、人生で初めての一人暮らしを始めました。当時は平成とはいえ、病院の雰囲気にはまだ“昭和の空気”が色濃く残っており、その日のうちに帰れることは一度もありませんでした。毎日が必死で、カルテは全て手書きです。先輩の書いたカルテを参考にしながら自分なりに工夫し、胸部レントゲン所見には色鉛筆で肺野の影を写すなど、自分なりの勉強方法で診療に向き合っていました。

━━ 血液内科も研修されたのですか。

 第三内科に入局し、消化器内科を志していましたが、血液内科の研修もありました。最初に担当した重症の患者さんは白血病の方で、奇しくも京都の夏の風物詩「大文字の送り火」の日、8月15日に亡くなられました。何もできなかった無力感は今でも脳裏に焼きついています。

━━ 内視鏡をどのように学んでいかれたのですか。

 内視鏡には強い関心がありましたが、大学病院では師弟制が根強く、研修医の役割は「内視鏡の手洗い」からスタートせざるをえません。スコープを実際に操作する機会は限られており、ポリープ切除のような治療的手技は遠い存在でした。現在はマイナー科に進む人が多く、大分大学でも消化器内科を選ぶ人は年に数人なのですが、私たちの頃は20人近くが第三内科に入りましたので、なかなか症例が回ってきませんでした。しかし2年目に赴任した大津市民病院では状況が一変しました。実家から車で10分ほどの距離でしたが、あえて病院の寮に入り、臨床に没頭する日々を送りました。この時期は私にとって最も充実し、最も楽しい1年間だったと感じています。2年ほど上の先輩と私のセットで、大学では経験できなかった内視鏡手技を数多く任され、ここで基本的な内視鏡技術を一気に習得することができました。さらに、肝臓グループの先生方も非常に親切で、肝生検などの手技も経験させていただきました。3年目には大学に戻ることになりましたが、その際、内視鏡グループに行くか肝臓グループに行くかで、いわば“争奪戦”のような状況となり、大津市民病院での両グループからお誘いをいただきました。最終的には治療内視鏡の奥深さと面白さに強く惹かれ、大学院進学と同時に内視鏡グループに所属する道を選びました。これが後の研究人生を方向づける大きな決断となりました。

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━━ 大学院ではどのような研究をなさったのですか。

 大学院では上司の指示のもと、微生物学講座で研究を行うことになりました。あくまでも第三内科での大学院ですので、大学院生だから患者さんを持たなくてもいいということはなく、大学院の4年間も一種の社会人大学のように、日中は第三内科の消化器内科医として臨床をしながら内視鏡の技術も学び、夜と週末に研究するという日々でした。ただ、第三内科は臨床の科ですし、研究室がないので、大学院としての研究は微生物学講座に行ってこいということになったんです。

━━ 微生物学講座を選ばれたのはどうしてですか。

 上の先生の同級生が微生物学講座の教授でいらしたからです(笑)。こちらの教授はもともと眼科の先生だったので、眼科の先生方が多く来ている講座で、整形外科からの先生方もいましたし、微生物学というよりも主に免疫学をやっていました。しかし、この講座は炎症性サイトカインの測定技術に優れており、眼のサイトカインを測っている人もいました。私はここで自ら研究テーマを考えるよう求められたので、眼のサイトカインを測っている人と同じように、消化器のサイトカインを測ろうと思いました。当時、消化器内科でのサイトカイン研究の主なターゲットは潰瘍性大腸炎(UC)やクローン病などで、既に多くの施設がしのぎを削っていました。私はその中で「勝てる場所を探す」戦略を取り、まだ手つかずの領域だったヘリコバクター・ピロリ(ピロリ菌)に注目しました。ちょうどその頃、ピロリ菌が胃粘膜でインターロイキン8(IL-8)を誘導するという論文が世界で1本だけ報告されており、まさに“研究の空白地帯”でした。ピロリ菌が新種の菌として発表されたのが1983年から84年なので、まだ10年ほどしか経っておらず、日本では胃がんや胃潰瘍の原因はストレスだと言われているような時代でした。

━━ どのように研究を進めていかれたのですか。

 私は内視鏡医としての立場を活かし、自分で内視鏡検査を行い、生検検体を採取しました。その胃粘膜からIL-1〜IL-12(当時測定可能だった範囲全て)のサイトカインを測定しました。ピロリ菌感染が複数のサイトカイン、特にIL-8の強い誘導と関連することを明らかにし、その病態形成に菌側因子が関与している可能性を示唆しました。この研究はCagAの「有無」のみを対象にしたものでしたが、その成果により、私は京都府立医科大学の年間優秀論文賞である「青蓮賞」を受賞することができました。この学位論文は研究者としての出発点となり、大きな自信に繋がりました。

━━ ご自身で内視鏡を使って採取できるというのが素晴らしいですね。

 だからこそ、今も研究が続いているのだと思います。今は基礎医学の先生方と臨床の先生方との中間みたいなところにいますし、基礎医学の研究者にはなっていません。今も普通に内視鏡で検体を取るという、そのスタンスは大学院時代に「研究だけではなく、臨床もして、二つを両立しなさい」と言われたことで培えたものです。

━━ そして、次の課題を見つけられました。

 大学院修了を目前に控えた1997年、私は次の課題として、CagA遺伝子の構造そのものに踏み込みました。特に3’末端領域の繰り返し配列(repeat sequences)に注目し、独自にプライマーを設計してPCR増幅・シーケンス解析を行いました。その結果、日本人の臨床株では欧米由来株とは全く異なる配列構造を持つことを発見したのです。具体的には第2繰り返し領域の塩基配列が大きく異なり、日本株に特有なものを「Japanese Second Repeat(JSR)」、欧米株のものを「Western Second Repeat(WSR)」と命名しました。さらに、複数の繰り返しを持つ株の多くが胃がん由来であることを突き止め、繰り返し配列の構造と胃がんリスクとの関連性を世界で初めて報告しました。この研究成果は私の米国留学後に論文としてまとめ、ピロリ菌病原因子研究の礎となったばかりでなく、私のライフワークの起点ともなったのです。

連載: プロフェッショナルインタビュー

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