ご専門を選ばれたきっかけについて、お話しください。
産婦人科を選んだのはこれも志が高かったわけではなく、消去法です(笑)。5年生で臨床実習が始まりましたが、内科は求められる知識の量が膨大で、高い志がないと無理だなと感じましたし、心が折れそうでした。外科や小児科も大変そうでしたし、産婦人科が大変ではないというわけではないのですが、患者さんも基本的には女性ですので、親しみながらできそうな診療科なのかなと思い、産婦人科を選びました。
大学を卒業後にすぐに大学院に入られたのですね。
大学卒業後に母校の産婦人科教室に入局したのですが、医局の方針もあり、すぐに大学院に入りました。当時は臨床と研究を同時にすることができたのですが、若いときのほうが研究でも頭が働くだろうし、臨床と両立できる体力もあるのかなと、分からない自信を持っていました(笑)。
1年後に島根県立中央病院に行かれたのですね。
大学院を休学させていただき、県立中央病院に行きましたが、これは医局人事です。県立中央病院は大学病院とは全く違い、周産期母子医療センターのある市中病院ですので、とても忙しかったです。ただ、県立中央病院で周産期医療の研修をさせていただいたことが周産期医療に携わるきっかけになったのかもしれません。当時はあまり意識していませんでしたが、振り返ってみると、忙しい病院で周産期の患者さんを大勢診たことが今に活きているなと思います。
周産期医療の遣り甲斐はどのようなところにありますか。
妊産婦さんが亡くなると、赤ちゃんも亡くなってしまいますので、遣り甲斐はとても大きいです。患者さんがあまり多くない大学病院で1年過ごしたあとで県立中央病院に移りましたので、ギャップはありましたが、死なさないこと、産まれることを一気にやっていけるようになりたい、こういうところに身を置いて働いてみたいという気持ちになりました。
その後、平田市立病院に移られたのですね。
これも大学院を休学し、臨床に特化してやっていこうという医局人事で、半年間ですが、平田市立病院に勤務しました。そこでは副院長先生と2人きりの産婦人科で、患者さんの数は多くないものの、もう1人が幹部の先生なので、ほとんど私がファーストタッチをしないといけませんでした。副院長先生を気軽に呼びづらいですし、そういった状況での責任のあり方を学びました。分娩も手術も最初に診て、自分で判断して、最終的に副院長先生に来ていただくという形ですね。がんなどの大きな手術はそこまで多い件数がなかったのですが、それは助手を務め、小さな手術は私がメインで執刀もしていました。
大学院に戻られたのはどうしてですか。
私としてはもう少し臨床の経験を積みたいという一方で、若いうちに基礎系の研究もしたかったので、指導教授のお勧めもあり、大学院の2年目として戻る形になりました。そこから大学院修了までは熊本大学に国内留学をしました。私には下垂体ホルモンの基礎研究をしなさいというミッションがあり、熊本大学の宮本英七教授のもとで研究をしました。
熊本はいかがでしたか。
暑かったですね(笑)。島根も暑いのですが、熊本はさらに暑かったです。でもとても楽しい日々でした。研究に関しては「行けば分かる」と言われて、よく分からないまま行ったのですが、宮本教授から丁寧なご指導を受けました。基礎の研究は結果が出ないときついのですが、ご指導の結果、無事に学位を取ることができました。
手稲渓仁会病院にも勤務されたのですね。
大学院を終え、母校の大学病院に勤務していたのですが、大学のときからお付き合いをしていたパートナーが札幌に住んでいたので、私も札幌に行くことにしました。学位も取れましたので、そろそろ環境を変えてもいいかなと思ったんです。パートナーも大学院を修了しましたので、一緒に住もうということになりました。母校の医局にも籍はありますが、札幌に移った時点で北海道大学の医局にも入り、その医局人事で手稲渓仁会病院に勤務することが決まりました。手稲渓仁会病院はとても忙しく、私の医師人生の中で一番きつかった勤務かもしれません(笑)。手稲渓仁会病院にはNICUはないのですが、三次救急病院ですので、患者さんの搬送が多く、忙しさはNICUのある病院と変わりませんでしたね。
釧路赤十字病院に来られた経緯をお聞かせください。
これも医局人事です。パートナーが釧路赤十字病院に赴任することになったので、私も一緒に異動させていただきました。
医師として、影響や刺激を受けた人はいますか。
これまで指導してくださった先生方、一緒に仕事をしてきた同期や後輩からも影響や刺激を受けており、この人という特定の人はいないのですが、内科医のパートナーからの影響や刺激は大きいです。私は大学院にも行きましたし、大学病院に勤務したこともあって、どうしてもスペシャリストに偏りがちで、「これは関係ないでしょ」という感覚が無意識のうちにあったようです。でも、当院でやっと一緒に働けるようになったパートナーの姿を見ると、どんな患者さんでも、どんな状況でも診察をするスタンスがあることに気づきました。そういう資質がもともとあったのかもしれませんが、大学時代は学生なりのことしかしないですし、医師としての姿を当院で初めて見ると、何でも診る医師になっていて、なかなか堂に入っていました。これは負けていられないぞと思いましたし、スペシャリストからジェネラリストに転換しようと決めたきっかけになりました。もちろん当院の場合は四の五の言っていられない状況下で何でも診ないといけないわけですが、「誰でも診ましょう」というパートナーの存在は私の見本や手本になりました。