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プロフェッショナルインタビュー 2025-12-23

第2回「市中病院だからこそできる研究があります。」福田総合病院 心臓センター 米田正始センター長

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る 「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー! どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
世界のスーパードクターほか、人気メディアに出演

今回のゲストは、福田総合病院の「米田 正始」先生です!
第2回「市中病院だからこそできる研究があります。」をお話しいただきます。

目次

プロフィール

名 前:

米田(こめだ) 正始(まさし)

病院名:

福田総合病院

所 属:

心臓センター

資 格:

・日本胸部外科学会認定医・指導医
・日本外科学会認定医・専門医
・三学会構成心臓血管外科専門医認定医機構心臓血管外科専門医
 修練指導医
・米国胸部外科学会(AATS)会員
・AATS Mitral Conclave(僧帽弁シンポジウム) Faculty
・米国臨床胸部外科医会(STS)会員
・ヨーロッパ心臓胸部外科学会(EACTS)会員
・アジア心臓胸部外科学会(ASCVS)会員・理事
・アジア弁膜症アカデミー(Mulu弁膜症国際シンポジウム)理事
 第9回国際シンポジウム会長
・日本冠疾患学会理事・名誉会員
・日本冠動脈外科学会理事・幹事
・日本低侵襲心臓手術学会(旧Japan MICS Summit)世話人・理事
・日本心臓血管外科学会理事・特別会員など
・神戸大学大学院非常勤講師
・岡山大学大学院非常勤講師
・中国・大連大学医学院附属中心医院客員教授
・中国人民解放軍第二軍医大学客座教授
・中国・天津医科大学・泰達国際心臓血管病院客員教授
・昭和大学客員教授、All About 心臓病 ガイド など
先生の写真
先生の写真

経 歴:

・1955年に奈良県橿原市で生まれる。
・1981年に京都大学を卒業後、天理よろづ相談所病院でレジデントとなる。
・1983年に天理よろづ相談所病院でシニアレジデント、心臓血管外科上級研修医となる。
・1987年に天理よろづ相談所病院心臓血管外科医員となる。
・1987年にトロント大学トロント西病院心臓血管外科に上級医員として留学する。
・1987年にトロント大学トロント西病院心臓血管外科に上級医員として留学する。
・1990年にトロント大学トロント総合病院心臓外科に上級医員として留学する。
・1993年にスタンフォード大学医学部メディカルセンターに上級研究員として留学する。
・1996年にメルボルン大学医学部心臓血管外科に主任外科医・助教授として着任する。
・1998年に京都大学医学部心臓血管外科教授に就任する。
・2007年に豊橋ハートセンター、大和成和病院心臓血管外科スーパーバイザーに就任する。
・2008年に名古屋ハートセンターに副院長、心臓血管外科統括部長として着任する。
・2013年に豊橋ハートセンター、大和成和病院、名古屋ハートセンターを退職し、高の原中央病院かんさいハートセンターに特任院長、
 ハートセンター長、心臓血管外科部長として着任する。
・2015年に仁泉会病院心臓血管外科部長(2024年まで)、野崎徳洲会病院心臓血管外科スーパーバイザー(2016年まで)を兼任する。
・2016年に医誠会病院心臓センターにスーパーバイザーとして着任する。
・2020年に福田総合病院に心臓センター長として着任する。

心臓血管外科の第一人者になる

━━ スタンフォード大学に移られたのはどうしてですか。

 トロント大学には7年ほどいたのですが、急に外国人への風当たりが強くなり、ビザがなかなか下りなくなったのです。そのため、しばらくは本格的な研究をしようかなと考え、スタンフォード大学に移りました。

━━ スタンフォード大学には臨床ではなく、研究で留学されたのですね。

 そうです。スタンフォード大学には新しい手術を開発するために必要な研究をしたいという申し込みをしました。その研究は設備、指導スタッフなどの面でスタンフォード大学かペンシルベニア大学かしかできなかったのですが、スタンフォードを選びました。その理由はペンシルベニアが嫌いだったからではなく、スタンフォードは西海岸で景色が良く、個人的に好きだったからです(笑)。それにスタンフォードからは「その研究を是非やりたまえ」と言ってもらったこともあり、スタンフォードに移りました。移る前には予算の都合で給料は出せないと言われていましたが、やりたい研究のプレゼンをしたあと、給料を出すと言われました。実力重視のアメリカ社会を見た思いでした。

━━ スタンフォード大学はいかがでしたか。

 こんな大学が世の中にあるんだと思うほど、すごかったですね。スタンフォード大学の敷地だけで京都市の旧市内が全て入るぐらいのサイズがあります。京大の吉田キャンパスの40倍ほどの大きさのキャンパスで、臨床、研究、教育のいずれも素晴らしい施設がありました。ここで研究に打ち込み、割と早い時期に多数の論文にして、アメリカで一番良いとされる学会で何回も発表しました。研究はかなり順調に進みました。

先生の写真

1994年アメリカ心臓学会にてスタンフォード大学仲間と


━━ メルボルン大学に移られたのはどうしてですか。

 そろそろ臨床に戻りたいと思っていたのですが、当時のアメリカは外国人が臨床をするには非常に厳しい状況でした。冷戦が終わり、西側諸国に対して温かく接する必要がなくなったのでしょうね(笑)。そのため、熱心な医師が入ってくるとなるとアメリカ国内の医師の職場が奪われるということで、永住すれば別かもしれませんが、3、4年の滞在であればスタッフには絶対になれないだろうと言われていました。今はアメリカ人医師がきつい仕事を避けるため心臓外科スタッフのポジションに空きができ、外国人でも優秀な人ならチャンスがあります。
そこでヨーロッパかオーストラリアでいいところはないかなと探していたら、イギリスの学会でオーストラリアの有名な先生と出会い、お話をしたところ、「うちに来るか」と言ってくださったことで、メルボルン大学に行くことになりました。コネがなくても研究や臨床の実績があれば新しい世界が広がることを知りました。
現在はオーストラリアで臨床をするためには英語などの様々な試験がありますが、当時のオーストラリアには試験不要で行けたこともあり、一つの穴場になっていました。それで、南淵明宏先生(現 昭和医科大学横浜市北部病院循環器センター教授)や新浪博士先生(現 東京女子医科大学病院心臓血管外科主任教授)といった日本人の先生方が大勢おられました。「オーストラリア仲間」と言い合っていた先生方は皆さん、その後、大活躍されています。私はメルボルン大学のオースチン病院で助教授として診療にあたっていましたが、いつでもどのような心臓手術にも対応できる機能があり、恵まれた環境でした。

━━ そして1998年に京都大学に心臓血管外科の教授として戻られたのですね。

 当時の京都大学の教授選考は世界中から目ぼしい人のリストを作り、そこから選考していって、最後は面接などで決めるという感じでした。私は京大出身ということもあり、たまたまそのリストに最初から入っていたようです。

━━ 43歳での教授就任はとてもお若いですよね。

 きっと「変な奴が来た」という雰囲気になったでしょうね(笑)。京大には10年ほど勤務しました。京大は実考え研究をするにあたっては素晴らしいところで、何の不満もなかったです。また基礎医学や心臓血管外科と関連の深い内科には立派な先生方がおられました。それで実験研究が盛り上がり、中国やベトナム、インドネシア、バングラデシュなどから先生方や留学生が来てくれたりしたのも嬉しかったです。
しかし、臨床に関しては縛りが大きかったです。手術を多くしようと思うと、色々なところでガタが来るんです(笑)。それで10年は粘りましたが、私としては「断らない医療」を掲げたうえで、さらに心臓血管外科をやっていこうということで、豊橋ハートセンターに移りました。

━━ 豊橋ハートセンターを選ばれたのはどうしてですか。

 豊橋ハートセンターが名古屋に新しくハートセンターを作ることになり、そこに携わることになったからです。豊橋ハートセンターでは断らない医療の実践はもちろんですが、心臓血管外科の手術も数多く経験しました。大学病院とは比較にならないほど足腰の強い病院で、専門民間病院のあり方や指導医のあるべき姿など、学ぶことが多かったです。それで週の半分以上は豊橋にいたのですが、東京の空気も吸ってみたくなり、南淵先生がおられた大和成和病院でスーパーバイザーも務めていました。

先生の写真

2009年名古屋ハートセンター


━━ 東京の空気はいかがでしたか。

 東京のように、大都会であればあるほど色々なことがやりやすいです。哲学のような学問をするには京都のようなところで静かに考えるのも良いのでしょうが、臨床は患者さんあってのものですから、人口が多いというのは大事ですね。都会には病院も多くありますから、色々な先生方と交流して勉強ができます。そういう発信力や勉強ができる環境という意味では関東は有利だと思いました。

━━ 豊橋や大和、名古屋では海外で開発された新しい術式も使って手術されたのですか。

 そうですね。私は臨床医ではありますが、研究者のようなところもあり、誰でもできる手術にはあまり関心がありません。もちろん外科医ですから手術は大好きですが、誰でもできる手術よりも、皆が困っている病気を治したり、手術の改良や開発をすることが好きなんです。だから、色々な苦労をしました。
例えば、バイパス手術で患者さんが亡くなることはあまりありません。手術前に心臓が止まっていたような重症の患者さんの緊急手術の場合は別として、バイパス手術で亡くなることはあまりないのですが、酷い心不全の場合は一つ間違えば亡くなってしまいます。でも、亡くなるかもしれなかった人が元気になり、社会復帰までしている姿を見ると、喜びが一段と大きくなりました。

━━ 新しい手術のための研究なのですね。

 研究は研究、臨床は臨床と分けて考えている人でもできることをしっかりできていればいいのですが、私は「手術でこんなのやったらどうなるのかなあ」と考えたことを実験室でやってみて、「なるほど、こうやるとうまくいくんだな」と確認してから手術にもっていきます。私の研究はそういうものが多いです。

━━ 市中病院にいると研究は難しいと聞きますが、先生はどのように研究を進めてこられたのですか。

 市中病院だからこそできる研究があります。市中病院のほうが手術はやりやすい環境ですので、「これこれの手術を何例やって、その成績はこうで、こんな工夫をしたら死亡率がこれだけ下がりました」という研究は市中病院でこそできる、いい研究です。大学病院では動物実験などで科学的な研究をして、それを臨床現場に持っていくという研究をするべきだと思います。

━━ 2013年からは関西の病院にいらっしゃるのですね。

 名古屋ハートセンターは立ち上げの準備の段階から参加し、5年間で愛知県では屈指の手術数を誇る施設になりましたが、奈良県に住んでいた両親が高齢になってきましたので、親の面倒をみたいという気持ちになり、実家の近くの高の原中央病院に移り、新しくハートセンターを立ち上げました。ここでは開心術と大血管手術を中心に行い、初年度で150例を達成しました。ただ、地方の病院ですので、豊橋や名古屋のようにはいかず、私の理想とする断らない医療ができなくなったこともあり、大阪に移りました。

━━ 大阪では仁泉会病院、野崎徳洲会病院、医誠会病院に勤務されたのですね。

 大阪は実質的と言いますか、皆さんがよく仕事をしてくれました。仁泉会病院には伊泊大造理事長のもとで10年ほどお世話になり、その間に並行して勤務した野崎徳洲会病院は1年間の助っ人だったのですが、安全管理の強化と手術治療成績を大幅に改善しました。心臓血管外科専門医制度の基幹施設にも認定され、ミッションを果たすことができました。
野崎徳洲会病院を退職後は仁泉会病院と並行して医誠会病院に4年ほどいました。医誠会病院は透析医療や地域医療から発展した病院で、心臓血管外科の目標は「下町ロケット」でした。医誠会病院では谷幸治理事長のもと、拡張型心筋症、肥大型心筋症、MICSの弁形成などを世界に発信することができました。しかし、手術をリタイアする年齢に近づいてきたこともあり、長期的なことを見据え、内科をしっかりやりたいという気持ちが強くなりました。医誠会病院にも仁泉会病院にも全国から患者さんがいらしていたのですが、そのまま福田総合病院に移転いただくことになりました。手術は愛知県の一宮西病院などで定期的に行い、自分は皆さんのおかげで好きな仕事を永年やってこれたというありがたさを感じています。

連載: プロフェッショナルインタビュー